昭和46年07月17日 朝の御理解
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
心は確かに、神信心の定規であります。私共の信心がどの程度で頂いておるかと云う一つのバロメーターにもなる訳です。最近、ここのところを、お道の信心を頂いておると云うこと、合楽に御神縁を頂いておるという事が、しみじみ有難いなぁと云う心、即和賀心だと云う風に云われております。それはどんな場合でもね。おかげが頂かれると信じるから有難いのです。こういう難儀こういう難しい問題の中にあっても、御信心を頂いておるおかげで、合楽に御神縁を頂いておるおかげでと、しみじみ思えれる心。
それにはすっきりとまではいかんにしてもです、そこにそういう難儀な問題があっても、心が安らいでおれれる。こういう難儀な中にあっても、そこを元気な心で受け抜けて行けれるということがです、信心頂いておらんならば、こらどういうことになるだろうかと云う様なところでも、御信心を頂いておるという事は有難いなぁと思う心がやはり和賀心。和らぎ賀ぶ心に通じるのだ。
だからそういう心で、一心に願いそういう心で、ここでは落ち着いて静かに願えとこういう事になる。同時にここで神信心の定規とこういう。私は素晴らしい言葉だと思うですね。自分の信心の程度と云うものがです、この位な問題の時には、信心頂いておるおかげで、本当に平気で、平気どころか有難く受けられる。有難いなぁで受けられる。小さい問題と致しましょうかね、今度は中くらいの問題になると少し不安になる。
けれども一心にお願いをさせて頂いてお取次を頂いて。親先生が平気な顔でお取次を下さったから、はぁこれは心配することじゃなかろうと思うて、安心して居れれる。ところが問題が少し大きな問題になってくる。親先生は平気でお届されたのに、自分の心は、いわば、落ち着かない。静かに願えない。静かにお伺いが出来ない。そこで自分の信心を知る。やはり定規であります。
ああ自分の信心は、あれも分かった、これも分かった、大概修行も出来て、合楽の信心は一遍通り分かった様に思うておるけれども、実際問題に直面すると、この様に心が乱れておるところを見ると、自分の信心も、まぁこの程度のものだなと、そこからまた改めて、本気で信心修行に取り組ませて頂くという事にもなると云う訳である。成程心は神信心の定規じゃなと思いますね。同時にですね、平気な心にならんとね、おかげに繋がらんのです。最近毎朝ご夫婦で参って見える。
朝の御祈念に参って見えられる。堤さんの親戚関係の方なんです。今日はお参りなっとらん様ですけれども、昨日までお参りになっとる。それがあるちょっとした事件で、検事局に呼ばれておられる。誰でも良い気色はしませんよね。それでまぁ一生懸命お願いをしてお参りをなさった。それで愈々一昨日でしたか、御神米を上げましてね、神様と御一緒ですよと、安心しておい出なさい。平気な心で行きなさいと云う意味のことを申しまして、神様と御一緒に参りますと云うてから、昨日一昨日行かれました。
それで昨日、朝御祈念に参って見えて御夫婦で、先生大変都合よう向こうでも云うて、もう本当に心配しておることが心配にならん様に、都合よう云うて頂いたと云うて、昨日の朝お礼参拝があった。不安焦燥それがね、おかげの元にならんのですよ。例えば一本の、手摺りの付いてない橋なら橋を渡ります。それが長い橋です。まぁお天気のよい日なんかは、平気で通るけれども。雨風でも強くなりますとね、もうやはり吹き落とされはせんかと思うて心配になります。
その心配をするから、今度は足がカタカタ震うて来ます。足が震うて来るから落ち込まなきゃならんと云う結果が生まれて来るのです。どうですかこの畳なら畳一枚の上を歩きなさいち言うと、子供だって、年寄りだって歩きますよ。畳の上だからと思うから。これが同じ広さでも是が手摺りのない橋になると、そんな訳にはいかん。落ち込みゃせんか落ち込みゃせんかと心に不安が起こる。その不安が落ち込む元になる。だから人間というものは平穏無事、何でもない時には平気で世渡りをしてますけれども。
そこに信心が、どうでも必要だと思うんです。人間の人生の中には、それこそこれが雨であろうか、風であろうかという様なところがあります。そういう時にです、金光様と、一心にすがって、信心というこれに、手摺りが付く様なもんじゃ。だから安心が出来る。だから無事に通り終えることが出来るのだ。四、五日前に或る方が或る親のことで、息子さんがお願いさっしゃった。どうもこの頃体がお父さんの体が、調子が本当でない。子供達が、とにかくあんた、一遍医者に行って見て貰えば良いじゃないですかと。
と云うて親子夫婦で病院に行かれました。ところが病気は心配しておる様なことではないと言われて帰って来たが、後から娘さんに病院から呼びがついた。そして実はね、あれは胃癌で、しかも、随分もう広がっておる。だから私のところじゃいかんから、医大の良い先生を紹介するからと云うことであった。もうそれこそ子供達、まだ子供は何人も居りますけれども、その娘さんと息子だけしか知りません。お母さんも知りません。知ったら、どげん驚くだろうかと思うから言いきらん。
昨日も参って来ましたから、私がね、本人に言うのは酷だから、まぁお母さん迄位は言うとかにゃ、兄弟も全部話して、そして一心にすがらにゃ、と言うて、私がお取次をさせて頂いて、頂いたお知らせの事を話しました。お願いさせて頂きよりましたら、草冠を頂いた。草冠これは自然と、まぁ言う意味だと私は思うた。そしたら次に化すると云うことを頂いた。化けると云うこと。悪化するの化ですね。人遍にヒ。だからこれとそれと合わせると、どういうことになりますか。
草冠に化という字を書いてごらんなさい。花という字になりますよね。だからあなた方の子供達が一心にねお願いをさせて頂いたら、例えばそれが胃癌であっても、何々癌であっても。例えば幹三郎の肉腫が肉腫でなくなった様にですね、変わっていくのだと。神様の働きと云うものは、それはもう驚くばかりなんだ。そういう例はここではいくらもありますよね。最近の「光行君」の場合がそうでしたよ。大体云うたら、それこそ大変な心配になる病気だった。
ところが実際には、本人も打ち込み、親達も、親の受け方が素晴らしかったです。いわゆる、そういう事を聞きながら、自分の心の中には、一つも動揺しなかった。平気で受けられた。次に医者に行った時には、本当に心配はいらんと云うことになったのですからね。如何に、平気な心と云うことがね、素晴らしいおかげにつながるかと云う事が分かる訳です。昨日そのお母さんになる人が、一時の御祈念に参って来ておった。そしてまだ知らんとじゃん。おかげ頂いて心配しとったごとある。
自分のもじゃなかじゃろうかと思いよったつが、じゃなかごつだったから、先生おかげで、昨日から勤めに出よりますと。人間ちゃ神経ちゃなあ、じゃなかろうかと思う時にはもうそれこそ、周囲の者が心配するごとあった。所が昨日からおかげででないと言う事が分かったから勤めに出よる。だからそういうですね、例えばと云うのは私が先程から申します様に、畳の上を歩く様なものなのです。だから足が震わんとです。
だからこれはです、めくら蛇に怖じずでありまして、めくらだから平気で居れれるのです。だから、それもね、或る意味では、おかげを頂くことが有りますけども、それはしかし、長くは続きません。やはり信心を頂いて神様を信ずる、その力がね、平気な心になると云うものでなからなければ駄目であるところに、信心は限りなく稽古をさせて貰わねばならんなと云うことになるですね。昨日、お母さんが参って来てから、自分はそうじゃないと言うて、喜んでお届けするから、私もよう言いきらじゃった。
しかし、昨日、朝参って来た息子に云うとるけんで、息子が、徐に言うじゃろうと。兄弟、お母さんにも言うて、只、黙って打ち込んだらよいと。だから、神様に頂いとった事だけは、私は、そうして話しました。例えそれが、どげな病気だったっちゃかまんばい。金光様は、癌じゃけんで、おかげ頂かせきらんと言わっしゃるごたる神様じゃ、絶対ないのだから。問題は、受ける方の側さえ、しっかりして行ったら。
これはもう不治の病と医学では云うても、神様がおかげ下さろうと言う事になったら、それこそ本当にそれこそアランドロンである。そういうおかげが頂けるのが信心なんだ。そこで私共の心をです。時折検討してみて本当に平気で居れれる様になり、有難いなぁと云うておるけれども。さぁこの位な問題が起こったら、もう心が乱れておる。そわそわしておる。イライラしておる。腹がたっておる。そこで自分の信心の程度を分からせて貰うて、そんならそういう時に驚かんで済むとか、平気で居れると云う時。
例えば私は思うのですけどもね、無情の風と云う。例えば無常の風が吹いて来ても、それを有難く受けたら、無情の風は向こうさえ行ってしまう。それが信心なんだ。私もだから、そんなお取次をさせて頂いて思うた。私自身がもし医者に何々癌だと言われた時には、私はどういう事になるだろうかと自分で思うてみた。そこで信心させて頂いて、神様のおかげを頂いて生きるも死ぬも、もうあなた任せと云う心の状態と云うものが、如何に鍛えられた上にも、鍛えられておかなければいけないかと云う事が分かります。
ちょっと暫く待って下さいと言うて、無情の風が吹いて来た時にそう言うて慌てんならん様な事ではならんなぁと、まあ自分でもしきりにその事を思わせて貰った。そういう時に落ち着いて静かに願えれるであろうか。静かにお伺いが出来るであろうか。心は神信心の定規成程自分のおかげの頂ける範囲というものが、それに依って分かる是じゃ願いだけは大きな願いを、大きゅう大きゅうと云うて願うとってもこんな小さい事で、この様な小さい事で乱れる様な事では、大きなおかげは受けられんなと言う事が分かる。
そこでほんならどの様な、それこそ今申します様に、無情の風が例えば、よし吹いて来てもです。それを向こうに吹きやる程しの力を頂く為に、お互いが精進させて貰わねばなりません。落ち着いて静かに願えれる。そこでね、私共は、そういう信心を、段々身に付けて行く事の為に、どの様な信心を日頃させて頂いておったらよいかと云うことになる。信心の焦点なしに、只、拝むこつばっかり拝む、参るこつばっかり参ったって、成就はしませんよ。そうですよね。
例えば字を書くと云ったって無茶苦茶に、只書いただけじゃいかん。ちゃんと手本を見て姿勢を正して稽古をさせて貰わにゃん。師匠がそこん所はいかんばいと言うたら、そこん所を一生懸命、そこに焦点を置いて稽古せんならん。鉄砲撃つ稽古をしたっちゃ同じこと。いきなりさんぱちボンボンいきなりさんぱち撃っただけじゃ上達はせんですよ。一つの的なら的というものを、ちゃんと自分で作っておいて、その的に向かってその的が百発百中射抜かれて行く様なおかげを頂く為に的が要るのである。
そして段々その的に近づいて行く事が楽しみにもなりゃ、喜びにもなって来る訳であります。自分の信心に於てもしかりである。映画を見ましてもお芝居を見ましてもね。どんなに面白いなぁと思うて見ておってもね、そのラストシーンが悪いとね何かがっかり致しますね。初めも中も大事だけれどもラストシーンが一番大事。良かったなぁとため息が出る様にある。お芝居を見て居っても映画見て居っても、いわばよい映画いわばラストシーンが良いと、本当にため息が出る程良かったなぁと思うでしょう。
そこで私共の信心もです、それこそ朝の清々しさ昼の忙しさ、そして夜の有難さと云った様なね、日々がどうでもいると云うことです。もうちょいと今日は、もう忙しかった忙しかったと。今日はちょいと腹ん立って腹ん立って仕様がなかった、で寝につく休ませて頂くという様な事では駄目だと。明日迄きつかったきつかったがちゃんと残っとる。今日ばっかりは腹の立って腹ん立ってと云う時には、あくる日に目が覚めたっちゃまだ腹の立っとる。そこでどうでも、そこんところのですね。
元を取っとくと云うか、ラストシーンをキチッと、私は締めくくっとかなければいけない。例えば、よくそんなタイプの人がありますね。もう本当に親身にお世話なんかがよう行き届いてしなさる人があるです。してから、まちっと世話せにゃならんちいう時になってから、スパーッと止めてからね。締めくくりしない人があるです。そすと今迄お世話して来とったつまでが、無駄になってしまうですね。あの人は、誠意がないちいう事になる。一生懸命そうやってるやってる時には。
だから折角お世話を例えばさせて頂くなら、最後迄喜ばれる所まで、いや自分自身も良かったと喜べる所まで、お世話をさせて貰うと言う事。日常生活の上に於いても同じ事が云えれる。成程今日も一日様々な事があった。痛い事もあった痒い事もあった。腹の立つ事もあったけれども。よう思わせて頂いておったら、信心させて頂いておるおかげでです、そこをあぁ云う風に通り抜かせて頂いたと分かる。
結局はあの腹の立つ様な問題も、よくよく考えさせて頂きよったら、神様にお礼を申し上げることであった事が分かる。そこに生まれて来るのが静かな心、または和賀心。本当に神様有難うございますとお礼が言えれる。心安らかな中に、寝につくことが出来る。だから翌る朝の目覚しも、また有難い、清々しい目覚しのおかげが受けられると言うことになるのです。そういう私は日々。
特に例えば今日の御理解のところはね、心は神信心の定規じゃと、そこで自分自身の心と云うものが、この様な場合、この様な心の状態で受けられる。それが自分の信心の答えなのだ。それが平気で有難く受けられるなら、いよいよ有難くなるだろうし。そこに少し乱れが出るならば、ここんところを、も少し本気で信心を修めて行かなければならないなと云うことになるだろうし。そういうおかげを頂く為には、どういう信心をさせて頂いたら良いかと云うことを、只今、最後に申しました。
ラストシーンを見事にしていく日々であらなければならないと言う事。一番最後のところをです、飾って行く日々でなからなければならないと言う事。そういう信心からです、私は段々平気な心心を乱さんで済む心。成程金光様の御信心を頂いておったおかげで、合楽に御神縁を頂いておったおかげで、この様なおかげが受けられると、和賀心を持ち続けて行く事が出来る訳である。所謂落ち着いて静かに願えれるのである。
自分の心の状態。それはめくら蛇に怖じずで、自分の体に癌が巣くっておると知ったら、もうそこで血の気が引いた様に、もう死んだもんの様になる。それが事実そうであっても、お医者さんから、いや心配しなさることはいらん、癌じゃないですよと言われたら、さぁ今迄休んでおったものが勤めに出ろうかと云う位な元気が出て来る。だから形の上に於いては、そういう心を目指すのだ。
けどもそういう、只、めくら蛇に怖じずで、安心しておれる様なのは長くは続かん。どこまでも、信心に依って生まれて来る喜びが不安を消す。信心に依って生まれて来る不動の信念がです、どの様な場合でも、びくともせんで、どっこいと受けられる信心を、日頃鍛えておかなければいけないということを申しましたですね。そこに、自分の信心の程度と云うものをです、分からせて頂く事にもなる。
そしてそういう様な心の状態の時、まだこの位の事をこのくらい、心を落ち着けないと言う事は、これが自分の信心の正体だなと思わせて頂いて、本気で信心の稽古をしなければならない。只、無茶苦茶に拝むだけじゃいかん、ただ無茶苦茶に参るだけじゃいかん。そこに稽古をするなら、一つの的を置いて焦点を置いて、その焦点に向かって毎日信心の修行させて頂かなきゃならん。それを今日は朝の清々しさ、昼の忙しさ夜の有難さで締めくくって行けれる。有難いなぁというラストのところをね。
そのシーンを私は素晴らしくして行く稽古。なかなか出来ません。眠っとっても思うたら、心配で寝られません。眠っとってもやはり腹が立ちます、思い出しただけでも。だから、一遍に、それがすっきりするという事ではありません。それが段々そういう稽古を繰り返して行くうちにです、結論的に本当にお礼を申し上げる事であったと、出来る所までいやそこを焦点に、お互い信心の稽古をして行かなければならんと言う事になります。
どうぞ。